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「生きる意味」

藤原書店から出版されたイバンイリイチの最晩年のインタヴューに基づく書。学生時代、私もこの人の「脱学校の思想」や「脱病院の思想」「シャドーワーク」などの本から多大な影響を受けた。当時はMフーコのような知の権力性を告発するスタイルが大いに幅をしめている時代だったからだ。ただ、この人も矛盾した人である。本人自身はトマス派の神学者で、大学の副学長まで務めた知識人であり、社会科学から発想を得た分析用具をふんだんに使う。しかもその思想は大学の講壇、セミナー、書物を通じて伝達される。にも拘らず制度としての学校が人々にある特定のパターンの知識に対する依存症に貶め、一握りの人しか全学歴を達成できぬゆえに多くの人々に言われなき劣等感を与えている、しかもそれによって伝統的な活字化されぬ知識の軽視と破壊、精神の隷属化そしてさらなる貧困まで招くと批判する。だが、晩年、イリイチはこの批判は既に遅すぎたと絶望することになる。なぜなら学校化による精神の隷属は既に学校という制度の枠を超えて我々の精神構造の一部と化すところまで事態が深刻化していたからだ。我々はあらゆる機会を通じて学ぶことをやめず、近代科学的な目で物事を見ることをやめない。我々はいつも学が足りないことに対する劣等感で悩まされ続ける。既に我々はかつてもっていた土着の知恵とは何か思い出すことすら不可能になっている。

さて、このようなイバンイリイッチの視点に対して私は次のような二つの視点で考える。一つ目は学問の意義とは何かという問いである。全共闘時代より二つの学問観が争ってきた、学問はその教えー学ぶという形式を通じて国家や企業に仕える優秀な官吏・企業戦士を養う場であるという学問観と、そもそも学問とは全てを疑うという人間の精神の自由の所産であり、その学問的探求を通じて現代の矛盾を考察し新たなるオルターナティブの可能性を構想することにこそ本質があるという学問観。私はどちらか一方が正解だとは思わないのだが。

二つ目はそもそも我々にとっての何物にも影響を受けていない土着の知恵など存在したのか、もしくは近代合理主義と無関係な知などあるのかという問いである。そもそも近代合理主義そのものが学校教育というある特定の枠組みの範囲を超えた多様な広がりを持っており、調教された知、権力としての知という観点からすり抜ける要素を多分に持っている。それに我々にとって近代の外部を唱えようとしても近代的な知と土着な知は既に分離不可能なほど混合してしまっており分けること自体が空虚な机上の論理としか言いようがないのである。

ここまで言えば私が何を言いたいのか解かるだろう。私が言わんとすることは既にデリダによって言われてきたことだ。全ては引用でありオリジナルな知はない。我々は近代知の外部に出ることは出来ない。近代知は無数の解釈に開かれており、およそ近代的と思われていないものにまでその思考は開かれている。必要なのは近代知を脱構築することであり近代知の外部を目指すことではない。
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プロフィール

とくもと(本名徳永基二)

Author:とくもと(本名徳永基二)
35歳、非マルクス系社会主義者兼、おたく評論家
を自称する禿のフリーターのおっさん。

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