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「資本」論中途感想(3)

今回でこの稲葉振一郎氏の「資本」論を出しに使った書評は最終回である。と同時に一番語りにくい話題に触れる。今回のテーマは「利子」と「有のグローカル化と無のグロースバル化」についてだ。

一番最初は「利子」から。何故利子に触れるのか。それは私の資本の定義が稲葉氏と大幅に違うからだ。マルクスに基づいている稲葉氏は資本をこう定義する。「資産のうち自然物を代表であり、ほとんどのケースを占めるのが「土地」であり、これに対して人工物であるような資産を「資本」と呼びましょう」(「資本」論153P)

一方、自分の定義はこうである。
「元来この語は、利子に対する貨幣額で表した元本のことであり、この語のそれ以上の意味はこの元本概念の拡張にほかならない。ここにおいては、“全ての利子をを生む所有物―すなわち減価償却することなくその所有者に所得を与える全ての財ないし財の複合体”に資本の定義を与えようと思う。これは貨幣取引の拡大に伴い人間の能力を除く全ての財に貨幣価値ないしは資本価値を得るに至ったことを思えば至極尤もな定義だと考える。」『価値・資本及び地代』ヴィクセル著 第一章

稲葉氏の「大物(資本)」定義だと貸借されてもよいが普通に売買されてもよいものという定義である。それに対して自分の定義では貨幣を借りる時の元本価値を有するものである。つまり資本概念を定義するのに貨幣との債務関係が切っても切れない定義となっている。

問題は利子とは何かだ。稲葉氏の定義では「労働は賃金、資本は利子、土地は地代という価格によって市場において取引されるようになったです。」(「資本」論155P)つまり資本の貸借の際の賃料という定義だ。

一方、自分の場合はそれほど簡単ではない。一応、自分はケインズの考え方を踏襲しているので、ケインズ学者の小野善康教授の定義を採用すると市場利子率=時間選好率+物価変化率という定義だ。
当然、これがマイナスになる可能性がある。というより、自然利子率においては長期的には減価償却率+市場利子率=0でなければおかしいのだ。ハンナアレントいわく「私的所有物は使用され消費される何物かであるという点でかわりがない。」

一方、稲葉氏の定義による利子率だと賃貸料なので常にプラスになる。
で、この考え方はマルクスも踏襲している。セルリオゲセルをして

「なぜマルクスの資本論がプルードンの学説を追い出すことに成功し、社会主義=独裁制にできたのだろう。どうしてマルクスと彼の理論が世界のあらゆる新聞で語られるのか。空論とその無害さのためだという人もいる。キリスト教の教義が資本家にとって脅威でないのと同様、資本家は彼の理論を恐れない。むしろ、マルクスやキリストについておおっぴらに話すのは資本家のためになる。」(「自然的経済秩序」ゲセル著1-0)と言わしめるわけだ。

さて、話を後半に進めよう。次に問題になってくるのは「有のグローカル化と無のグロースバル化」だ。何故、今ここでこの問題を取り上げるかというとハンナアレントにおける「仕事=作品」の公共性の問題と知財の成立に関する問題との絡みからなのだ。
知的財産が成立するためには識字能力の普遍化と印刷技術の発達が欠かせない。それによって、特権階級だけの舞台劇と化していたポリス的公共性がより広い範囲に枠を広げてゆくようになった。ここまではいい。

ところでこういう状況はまさしくデリダのエクリチュール論が成立する空間といえる。稲葉氏はナウシカ解読では次のように語っている。「浮遊するエクリチュールは、一見逆説的にもそれが浮遊しているからこそ、強固な客観性と公共性をコミュニケーション・ネットワークに与える。このようなエクリチュールを含むコミュニケーション・ネットワークはコミュニケーションの主体の能力を著しく拡張する。」(「ナウシカ解読」74~76P)

お分かりのようにこの定義はワルターベンヤミンの「複製時代」の定義の真逆を行く。複製につれてアウラが無くなるどころかより強固な公共性が確立されてゆき、主体の発言能力を拡大するなんて。

じゃあ、この二つの見解の間に横たわっているのは何か。それがアレントがいう市場経済で消費財として生産されることなのである。で、すぐ気が付くようにこの両者の関係性はジョージリッツアがいうところの「有のグローカル化と無のグロースバル化」の間の関係性にぴったり符合していることに気が付くはずだ。一方は浮遊性によって多様な差異ある個人の参入がなされ、より強固な公共性とより発言権力のました個人が現れ、もう一方は空間的流布によって個人の作品創作能力が失われますます蔓延して来る空虚な形式的消費物に埋没する。この間の違いが何によってもたらされるのかわからないが、少なくても大規模産業と大量生産大量消費、マネーによって序列化されてゆく産業秩序が原因に絡んでいることは確かだろう。
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とくもと(本名徳永基二)

Author:とくもと(本名徳永基二)
35歳、非マルクス系社会主義者兼、おたく評論家
を自称する禿のフリーターのおっさん。

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