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マルチチュード

実の所、この本は柄谷行人が批判しているということでかなり期待を持って読んだ。(私は昔、柄谷と喧嘩してNAMを追放されたことがある上に私の現在の経済学における師匠、森野栄一さん[ゲセル研代表]は柄谷嫌いである。又、柄谷はマルキストだが、私や森野氏はプルードン主義者だ。)

結果から言うとかなり頭を抱えざる得ない本だという印象を得た。

1、彼はアナキストという言葉を単に無秩序という意味でしか使ってない。少なくともプルードンを読んだ節がない。

2、[グローバル議会の成立可能性」で言っていることは地球連邦政府という独裁制に至る道であり、プルードンなら絶対反対しただろう。

3、「暴力の民主的使用」は半分正しくかつ間違っている。ここで言われていることは文民統制の焼き直しにすぎず、戦争が防衛目的のみに限定できるのは負けている時だけに過ぎないことを忘れている。文民統制は現在でも一応されている。にも拘らず、侵略が聖戦の名で正当化されているから問題なのだ。要は重要なことは、闘っている人間自身がその行動が政治的目標追求のための一手段に過ぎないことをどれだけ認識しており、自らの害悪を為す可能性ある存在であることに自覚的であるかである。場合によっては敵とは戦後も付き合わなければならないかもしれない。その状況で如何により公平な形で終戦に持ち込み敵との間に平和な状態を作り出せるのか。そのことに関する政治的計算が出来うる人間のみが戦闘に参加する資格を有するのだ。

戦争行為を速やかに終息さすためには次のような社会的条件を必要とする。A,平和的な交易と外交がベストな選択であり、戦争はリスクが大きすぎるベターな選択である。B、いざ、戦争が始まった時、敵と取引をして、利得を得てくることを組織として容認しており、そういう行為を推奨してさえいる。C,組織の維持に関して敵との取引で何の損失もでないばかりかより組織が繁栄するようなメカニズムが導入されている。

戦争が外交の延長線だとはこのことの言っているのであり、私が前に書いた戦争にも法の統治が必要とはこのことの別の側面を現している。

とはいえ、この「マルチチュード」はかなりわが意を得たりと思えることも多く書かれているのも事実だ。例えば
「ここでは民主主義が直接的な目的となる。」--まさしくその通り。今左翼であろうとするものが達成する目標は啓蒙理念の復活である。しかもそれは国民国家という概念を越えるものでなければならない。

「マルチチュードは二重の時間性を生きる」現実を批判するためには可能性の次元を常に見出して置けなければならず、しかもそれは単なる理念でなく現に何がしかの形で既に存在するもの中に含まれる。しかし歴史を進歩の歴史として描けるのは事後的に再構成しているからであって未来は未だ不明であり過去には実現されなかった可能性が無数にある。人の生は不条理で無意味だが人はそれに事後的に意味を与えることが出来うる。

マルチチュードという概念そのものに関する評価について。マリチチュードはサルトルのネグリチュードの発展系でありその概念自体は評価できうる。だが、この概念をマルクスの疎外・物象化された労働に近い概念として捉えている点が私には不満である。疎外論・物象化論をどう捉えているかについては既に経済学・社会哲学の両面から私は書いてきた。経済学の面から見た場合、貨幣という制度を捉えきれていないということになるし、社会哲学からみたときは、オートポィエーシス的なシステムがその外部からやって来たリスクを再属領化する時に発生するシステム内の自己認識メカニズムの刷新運動(弁証法)=脱構築における言及不可能なものと決断の関係という所で語ったとおりである。

このことに関連して何故、ネグりのマルチチュード論での新たなる組織の有り様が既に言い古された議論を踏襲するか抽象論の域を出ないかというと、所謂ジルドゥルーズの流れを汲む生の哲学派の理論限界がそこにあるからだと私は思う。あらゆる議論は一端は言語の世界の秩序を潜らなければ成立しないのであって、人はどう努力しようが生そのものには行き着けない。言語のフィルターを通る限り必ず論理は一端、デリダやサルトルが問題にしたような意味論、ウェーバーやポッパーが論じた枠組み、ルーマンやベックが問題にするシステム論を通過せざる得なくなってしまうのである。(例えばその典型例としてジンメルの形式社会学やニーチェ哲学をどうウェーバーが理解社会学内で調理したのか考えればわかるだろう。)
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プロフィール

とくもと(本名徳永基二)

Author:とくもと(本名徳永基二)
35歳、非マルクス系社会主義者兼、おたく評論家
を自称する禿のフリーターのおっさん。

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