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サルトルの政治への拘りかたに学ぶもの

私が社民党員を始めたのは1989年。例の「山が動いた」の年だ。ここから考えてさぞかし熱心な政党員なんだろうなど人は思うのかもしれない。所が実際は誰かの選挙活動を手伝ってもそれを理由にした投票は絶対しない、他人に投票を勧めない、社民党本部の政策には悉く懐疑的など長くやっているにも拘らず非政治的行動の方が目立つといった有様だ。

では何故社民党員なのかといえば、ノンポリではないからだ。非政治的であることを意図的に選び取るという政治性はもっている。
サルトルはアナキストだったけど個人の自由を強調するあまり、政治的に無害な人間になることを嫌った。彼はナチを放置しておくと自分の足元にまで揺るがされることをしっていた。だから彼は戦略的に共産党と手を結んだ。勿論だからといって彼は共産主義社会で何が行われているのか目をつぶっていたわけでない。翻って現代、日本のナショナリズムを放置すると自分たちの私生活まで危なくなる。だから私は戦略的に社民党と連携するのだ。勿論、今ほど弱体化すれば上に声が届きやすいはず、運がよければ社民党をアナキズム色で染め上げれるかもという期待がないわけでないが。

かつて全共闘闘争が華やかなりしころ、実際の社会党の政党性とは関係なく社会党的なもの(デリダのいう亡霊てきなもの)に対する意識が確かに市民の間に存在した。反帝反スタを唱え大学をバリ封するノンセクトの学生たちならびに彼らに連帯した市民の間には自由な市民として存在することと閉じてゆく日本のシステムのあり様に異議申し立てすることが何の問題もなく共存できていた。

小市民であることが政治的であることと対立せざるえなくなったのはあまりにも世界がマルクス主義と資本主義の論理で汚されすぎていたからである。学生たちはサルトルを読んでいたにも拘らずついに彼のアナキズムを知ることなくプルードンの洗礼も受けなかった。その結果が内ゲバによる学生運動の壊滅。小市民主義ならびに会社人間への撤退。一転して日本的経済ステムの麗賛、その最終結果というべきバブル破壊とナショナリズムというわけだ。

はっきりいって私はある国家のナショナリズムや独裁に対抗するために別な国家のナショナリズムを持ってきたくない。社会で犯罪が増加しギスギスしてきているからといってその経済的社会的背景を抜きにしてセキュリティの強化ばかり唱えたくないのだ。


勿論、自由のために武器を持って闘うことも重要だ。だが、闘いは個人の自由に基づく行為でなければならず、逃げる人を貶めてはならない。
個人の自由に基づく闘いは他者の自由との共存の上に成立する。国権の発動たる武力行使が拒絶されるのはそれが個人に対する侮辱だからだ。劣化ウラン弾を空から降らせたるもの大型旅客機をハイジャックして世界貿易センターにつっこむのもどちらも個人の自由のための闘いとはいえない。

如何なる国籍、人種、民族よりも個人の自由は先行する。個人は如何なる集団的カテゴリーをもすり抜けて行く存在だ。それは個人に権利があるからではない。個人は彼自身の自己に対する考え以上に多彩であり生まれながらにして自由だからだ。そして人は多様な他者とお互いに規定し合う関係の中で己が場所とアイデンティティを確立する。個人に他者を廃絶する権利などない。

一見、空気のように明朗にそこにある市民社会というものは実に微妙なバランスの上に成立している。様々な来歴を持って来たれる人が旅の途中に一時漂白し、それぞれの領域に棲み分け、お互い関連しあう。みながみなそれぞれの事情を抱えながら互いにある距離をとりつつ少しづつ誰かの恩恵を受けて生きている。もしこの空間が互いに対する疑心暗鬼や落としあい、高い城壁と個人の事情を斟酌しない鉄の規律と団結で支配されたらもはやそれは市民社会ではない。


本来、社会主義はもっと多様な思想の集合体であった。それは啓蒙主義の理念のさらにその先を目指す思想で個人の自由を国家並びに資本の王権から解放しようという契機を秘めていた。ところが日本ではそういう意味での社会主義が浸透することなくマルクスかナショナリズムの間を大正時代から平成時代に至るまで常に振り子の針のように揺れ動くだけである。その中に置かれると個人は政治的であることと個人的であることのどちらかを選択せざるを得ず、資産あるものはその資産を恥じるか下層階級を侮蔑するかのどちらかに態度選択せざるを得ず、下層階級に所属するものは上層を逆恨みするか同じ階層に属するものを負け犬として蹴落としながら這い上がるしか仕方がない。

私にとって政治とはこういう現状に抗い日本にアナキズム的経済理論とアナキズム的政治理念を普及さすこと以外なにもでもない。

(追記)今日朝日新聞の書評欄を見ると柄谷行人はネグりの「マルチチュード」を抽象的で神話的と批判してるようである。面白いことである。ならば私はこの近代国家並びに主権在民のシステムから漏れ出してゆくそれを逆に称揚することにしよう。
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プロフィール

とくもと(本名徳永基二)

Author:とくもと(本名徳永基二)
35歳、非マルクス系社会主義者兼、おたく評論家
を自称する禿のフリーターのおっさん。

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