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「リスク論のルーマン」&「知識人と社会」と解釈の多義性

今回は一遍に二つの本を書評しようという聊か無謀な試みである。何故この二冊が選べれたかはこの所論の中で説明する

「リスク論のルーマン」啓草書房 小松丈晃著
実の所、ルーマンは私にとって非常に論じにくい論者である。私は一昔前にルーマンフォーラムの管理人さん(酒井泰斗氏)と言い争って辞めた経緯があり以後、ルーマンへの本格的な言及を避ける傾向がある。ただ、ルーマンのシステム論から何の恩恵も受けていないわけではない。ルーマンも時代と供に思想内容を変化させていっているが(その思想が完全無敵でなく世間の批評からいろいろ影響を受ける柔さを持っていることを知ることは楽しいことだ)その中から自分に利用しやすい部分だけ切り取りある種のバイアスを掛けて需要しているというのが大体のところだ。

取り合えず、ここではどう利用できるかという下心は置いといて書いてあることに即して論ずればこうなる。


ルーマンの思想は三期分かれている。

初期、コミュニケーションを確立する過程で挟雑物(複雑性)をすり合わせて地として落としてゆくうちに次第に図としてのシステムが浮かび上がってくる様を描いた理論。この頃の議論ではテクノクラートの現状肯定論だという批判がある程度あてはまる。

中期、オートポィエーシスを取り入れて以後。ある程度「リスク社会論」や環境クライシスからの影響を受けた理論。システムは外からの危険を自己の操作可能性の範囲にあるリスクとして翻訳することで取り込む動きを活発化する。だが、皮肉なことにリスクに対して再帰的な組織だった取り組みを強化するほど、この翻訳(取り込み)から排泄される非知的領域は堆積してゆき、システムは外部に対してますます閉じた体系となってゆく。

後期、システム形成の不可能性などデリダからインスパイアーされたと思える思考を取り込んでいった最晩年期。システムの再帰的再生産は本来、デスコミュニケーション状態の者たちの間に越境を企てるということで本質的に不可能性を孕んだ行為である。認識の外部の他者が求める可能性の次元とシステムの内的観察にとっての近傍としての外部では意味合いが相当違うのに(例えば先住民族の自立の権利と合衆国の保障する市民権とでは越えがたい距離がある)恰も両者の間に差異がないように差異の消去を行いながら外部の他者を取り込んでゆく。だがその過程では必ず既存の権利関係の枠から抜け落ちる外部の他者が産出される。この時点から見ても一見ありえなさそうなことがシステム内では普通のありえることになるという論理的飛躍が生じている。

このように当のルーマン自体が後期になればなるほど、システムの生成を自明なことではなく奇妙で怪しむこととして捉えていっている。『公式組織の機能とその派生的問題』などを書いていた頃のルーマンが非常に親しみにくいのに晩年の「社会の法」辺りになると割と読めるなと思えるのはそのためといえる。

 このルーマンのシステム論に対して自分にとってのシステムとは何かというとあくまでもかつて存在した社会契約論の代わり、理念としてのシステムということになる。「理想的発話状況」や「構造論的前提」などの本質論に依拠することなく過去若しくは未来に理想を丸投げせずに現状を批判するためのユートピア論。そこで問題になってくるのは再帰的振り返りは所詮翻訳の過程で越えれない差異を覆い隠す。排除される外部を作り出すという論点にどう答えるかということになる。そこで登場してくるのが二冊目に紹介する本の主人公JPサルトルだ。

「知識人と社会」岩波書店 三宅芳夫著
岩波から出版されたサルトルが如何にアナキストでデリダに近かった力説した本。この本に基づけば対自存在とは意識とか認識などいったものでなく規定性から逃れてゆく痕跡に他ならない。意識とか認識はこの対自の目の眩むような自発性を抑圧する装置である。対自は何者でもないもの、すなわち無によって自己から隔てれている。無は恐怖と区別される不安によって自己に開示される。恐怖は死を前にして崖から落ちないかという感情だとすれば不安は自ら崖から飛び降りないかという感情だ。対自は死に対しても自己保存という役割ですら引き受けようとしない。実存(対自)は存在(本質)に先立つ。従って対自は如何なる構造論的認識も振り払いそれらの規定の外部に抜けてゆく。一は一のままであり、けして同には服さぬ。例えそれが人類という類的認識だろうがだ。他者とは何か。それは二つ考えられる。対象ー他者、と主観ー他者だ。我々は対象を通じて己自身を鏡像的に見るが他者の眼差しはけっしてこの像の中には含まない。他者と私は互いに眼差しを介して規定し合うものに他ならない。対象ー自己(世界)は他者の眼差しを介して出現するが対自はこの世界からすりぬけてゆく。すなわち他者はこのあらざるものと否定される世界を通じて間接的に知りえるにすぎない。しかもこの自己と他者との分節はアプリオリに保障されたものでなくあくまで根拠なき偶然の産物である。

歴史にはひとつの主体による方向性もなければ物語もない。歴史とは他者の記憶であり常に人の期待を裏切り存在論的複数性に開かれている。人は状況において不確定な未来に取り囲まれながら自己と他者とのその都度一回限りの関係調整ー倫理を創りださなければならない。倫理も芸術と同様創造的行為であり彼だけの特殊な状況から出発するものであり誰も他人の善をその人に代わって選べない。秩序は外部からの集団の規定であり存在論的には共同の実践などない。共同の存在は各人のうちではお互いの眼差しによる制約に媒介され相互性であり、如何なる共同の本質もない。


ではこのサルトルの観点から見たとき、再帰性とはなんなのか。状況規定から自由なエクリチュールとは何を意味するのかである。民主主義が民主主義であるのはあくまで民主主義が他者と規定したもの「○○でないところのもの」からの眼差しを介してであり、(もちろん対称ー他者[他者と規定したもの]と自己ー他者[他者の眼差し]はイコールでない。)民主主義社会自体が己を規定できるわけではない。この社会において再帰性とは自己を異化することであり「対自存在」することである。対自は常に他者の規定からそれてゆく。
他者の眼差しと自己言及(再帰性)はお互い規定しあうがどちらもその規定から逃れてゆく。お互いにある種の誤解を介して相互に連関しあう。で、サルトルによればこういう関係の複数性並びに偶発性こそが倫理ということであり、もしこれをシステムとよぶとすればシステムはなるほど不可能性に関する行為である。誤解(デリダ的に言えば解釈の多義性)は相互的なので抑圧という言葉は当たらない。複雑性は聊かも収斂せず単なる偶然性が関係を作り出す。ある種のエクリチュールが汎用性があるとすると様々な状況(環境)で様々な解釈のバリエーションを持つからに他ならない。それら様々なバリエーションが同じ民主主義といえるのは民主主義にとっての他なるもの「○○でないこと」からの間接規定によってである。



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プロフィール

とくもと(本名徳永基二)

Author:とくもと(本名徳永基二)
35歳、非マルクス系社会主義者兼、おたく評論家
を自称する禿のフリーターのおっさん。

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